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「豊田高校の 11年」桃山敬先生 

桃山敬先生
桃山敬先生

 平成20年4月、五十路を迎える年度に、それまで20年以上慣れ親しんでいた尾張地域の高校から西三河の豊田高校への転勤は、私にとって青天の霹靂であったはずだが、純朴な豊高生との出会いがとても新鮮で、戸惑いがたちまち払拭された記憶がある。

同期の転任者は村瀬幸司、平山英二、玉木恵、干場晋也、原田あゆ子、黒澤俊夫そして新任の大山和加菜先生等であったと記憶しているが、まさかこの学校で定年退職までの11年間を過ごすことになろうとは思いもしなかった。

 転任初年度は近藤哲(現豊田工業高校教頭)先生が学年主任をした23回生の学年団に配属されて丹羽孝夫先生の1年8組の副担任となった。丹羽先生は一歳年下であったが、知る人ぞ知る野球部の鬼監督、はじめ恐れを抱いたが、頑固一徹でありながら真摯で心根が優しく、ユーモアに溢れ、私が野球好きということもあって、次第に親しくなれた。

 飛騨高山スキー場で毎年1月に実施される“スキー学習”は豊田高校の特色ある行事の一つであるが、なぜかしら私は11年間に5回も参加した。ちなみに修学旅行の引率は1回もなかった。やはり最初のスキー学習が印象深い。教員がゲレンデを巡回する際、そののち語り種となった事件が起きた。

丹羽先生と一緒に滑りましょうということになり、私がスキーを装着する時、先生の姿に驚いた。なんとスキーウェアをまとわず、ジャージ姿であったのだ。

野球ではノックの名人、スポーツ万能であることは承知していたが、ゲレンデをジャージで滑走する自信があるスキーの達人でもあったのか?

ところが次の瞬間、ストックに力を込めて颯爽と緩斜面を滑り始めたはずの丹羽先生の姿は意外にも手足がバラバラ、不格好、そして鬼監督らしからぬ情けない叫び声をあげながら大勢の生徒が見ている前でぶざまに転倒し、スキー板が絡まって起き上がることさえできない。

私が後を追い、立ち上がらせると、なぜかジャージのお腹の中から書類の束がバサバサと落ちて来た。あとで聞けば、野球一筋の丹羽先生はスキー経験がほとんどなかったということだ。スキーをなめてはいけない。

  豊田高校ではJRC部とソフトボール部の顧問をした。JRC部では生れてはじめて生徒と共に街頭募金活動を行った。福祉協議会で借りた着ぐるみをかぶった男子部員のもとに子供たちが目を輝かせて駆け寄って来た光景は忘れがたい。

 ソフトボール部では近藤哲、三ツ矢卓、谷口幸士先生のあとに、草野球の経験しかなかった私が監督になった。

11年の間には二人ともキャプテンをしてチームを仕切った宮川姉妹や三人ともスラッガーとして活躍した今野三姉妹、伝説のホームランをかっ飛ばした石倉さん、豪速球の木田さんや成瀬さん等がいた。

苦しい試合も多かったが、汗と涙と土にまみれた女子高生の青春ドラマに幾度も立ち会うことができた。

そして昨年度、榊原豊先生にバトンを渡すと、新たに素敵なチームが生れた。

 退職直前の二年は連続で33、34回生の3年生の正担任を任された。そして、あの吉田麻也選手にくせは強いが優秀な英語教師と言わしめた伊藤幸男先生とともに定年退職で豊田高校から送り出された。

顧みれば、つくづくと幸せな11年間であった。